題材を音楽にとった小説の映像化

 id:mayumi-mさんが書いていた「四日間の奇蹟」の感想に触発されて、色々と思
うところがあったので、こちらでも取り上げます。
 僕も上記の作品は読んだのですが、やはり、音楽というものを小説に登場させるに
は、音楽自身に対する造詣の深さと相当の筆力が必要なのだなぁ、と感じた覚えがあ
ります。今回の映像化に際して、映像化する側としては、音楽がらみの原作というの
は非常に楽しいのでしょうね。イメージが込めやすいし、音楽の効果を小説以上に簡
単に、万人にわかりやすく演出することができる。
 
 そこで思い出したのですが、音楽がらみの小説の映像化という意味で印象的なのは、
横溝正史の「悪魔が来たりて笛を吹く」です。中学生ぐらいの時に見た覚えがありま
す。その時はあんまり思わなかったのですが、今、唐突に思ったことを書いてみま
しょうか。

 (ネタバレ多少。恐縮)

 詳細は省きますが、上記作品、モーツァルト魔笛」の夜の女王のアリアのたった
一音の違いから金田一耕助氏が謎を解く、といったところが肝になる作品。
 しかし、これを映像化した場合、小説では"単なる違和感"として最後の最後まで伏
せられている部分が、もうバレバレなのですね。歌うシーンは二回あるのですが、そ
の時初めて夜の女王のアリアを聞いた私でさえ、一度目と二度目の音の差には気づき
ましたから。
 演出する側としては、やはりラストの金田一耕助の謎解きをいかに効果的に見せる
か、そこまでいかに観客に謎を解かせずに引っ張るかということが重要なのであって、
こういうバレバレ感を露呈させるような演出は、私的には厳しい評価をつけてしまい
ます。

 とは言いながら、謎を謎のままヒントも出さずというのは、アンフェアだとされ、
推理モノとしては最低の部類に入ることは事実です。
 ただ、私がこの演出に厳しい評価をするのは、アリアの部分を完全にクローズアッ
プしてしまったこと、この一点に尽きるわけです。ソプラノ歌手がピンで映され、
音量も絞らず、「聞いてくれ!」といった感じで演出すれば、誰だって音を聞いてし
まうと思うのです。そこを二度歌うシーンの両方を同じ演出でクローズアップしてし
まったことに不満を覚えたのです。
 例えば、「すばらしい歌声だ」のような台詞を薄くかぶせるだとか、引きの映像で
音量を絞るとか、それを一度目もしくは二度目のどちらかのシーンに適用すれば、観
客の意識を音から逸らすことが出来たのではないかなぁ、と思います。

 結局何が言いたいかというと、音楽を伏線として使う推理モノでは、文章では巧み
に誤魔化せる(隠せる)もの。それを映像化した場合の、いかにバレバレ感を出さない
よう、演出を工夫しなければならないかというところが重要だと思います。
 まぁ、基本的にどんな文章の映像化であっても、「視覚情報、聴覚情報は想像の翼
を広げなくても自動的に入って来るもの」であり、それがいかに明確で分かりやすい
情報伝達であるか」という点を意識しないと、ネタがバレバレだったり、陳腐なもの
になってしまったり、良くある「原作の方がいい!」という評価につながってしまう
わけです。題材選びも重要ですけどね。
 殊に、「美人」(男も女も含め)に類する、あらゆる文章表現の映像化というのは、
ハードルが高い、というか万人に認められるものはないと思っています。美というも
のは、あくまで個人の嗜好に属するものだというのがその理由です。
 それを役者の仕種の美しさや、裏方のメイク、または演出の仕方によってカバーを
し、成功を収めるパターンも多々あるのだろうと思います。

 そういう意味では、どんなものにしても、視覚情報・聴覚情報が大きな割合を占め
るエンタテインメントというのは、役者の力、裏方の力、演出の力(脚本含む)が全て
揃ってこそ、一定のレベルを保てるものなのだなぁ、というのを改めて考えてしまい
ました(強引な論理帰結ですが)。

 私がそういうものに携わった場合、どの位置づけで、どこまでプラスの力に作用で
きるのだろうか。それが問題だ(^^;